2023年 10月 クルベラブリンカ (Taiyo Label) 、11月 テラ・ローザ (KingRecords) が、各配信サイトでストリーミング開始。 そうして静かに暮らしています。
2021年 コロナ禍の還暦を機に、まぁいろいろあり、4月末日でクルベラブリンカの活動を終了。公に人前で歌うことも完全に退き、単独で音楽を作る道へ。ボーカル・インストラクター業は密かに続行。
2020年 コロナ禍、3曲入りEP 'ENMA' リリース (Taiyo Label)。リズムトラックは打ち込みで、ステイ・ホーム時期の完全宅録。クルベラブリンカBandcampでダウンロード販売のみ(他社配信、CDプレスなし)。
M1:ENMA M2:Blame Of Storm M3:Iron Veil
2019年 クルベラブリンカで、新曲『曖昧な明瞭な』『さらばだ友よ』のお披露目ツアー。いつもの東京・大阪に加えて、浜松、名古屋のイベントにも参加。
11月9日 'Gotwee 3 with Kazue Akao'でのMarshall GALA2参加 (g.島紀史/b.小笠原義弘/ds.山口PON)。翌10日にはこのメンバーで茨城水戸のJazz Room CORTEZにてライブを行っている。
11月20日 'TERRA ROSA 30TH ANNIVERSARY PREMIUM BOX' をリリース (KingRecords)。
2018年 クルベラブリンカ5枚目のアルバム'THE DEEPEST PLACE' を6月20日にリリース (Taiyo Label)。リズム、バッキング・トラックは大阪のライブハウス『ORTO LOUNGE』にて、赤尾の念願だったクリック無しのフリー・テンポでライブ録音。演者のハート・ビートが伝わる演奏を収めた。
2017年 クルベラブリンカ東京/大阪ワンマン・ライブ『新曲お披露目会』を定期的に行う(この時期の新曲はアルバム'The Deepest Place'に収められている)。
7月26日、前年の東名阪ライブを収録した 'Terra Rosa Live From CODA' 2枚組CDリリース (KingRecords)。Live盤でありながら、テラローザとしては26年振りの新曲 'To CODA' を収録。
2016年 6月29日、クルベラブリンカ 4thアルバム 'CONICALIFY' をリリース (Taiyo Label)。5月に先行レコ発ワンマン・ライブを東京・大阪で開催 。
11月にテラ・ローザでの東名阪ライブ(g.足立YOU/kb.JILL岡垣/b.MASAKI/ds.佐藤潤一)を開催。Primal時代のデモテープ集にライブ音源等をプラスした500枚限定CD 'TERRA ROSA PRIMAL Plus' を会場で販売。
2015年 大掛かりな音響システムのない、40席ほどのお店でゆっくり、じっくり楽しめるワンマン・ライブ(クルベラブリンカ・メタル・ディナーショー)を中心に活動を展開。
3月には一夜限りの異色バンド 'DAMIEN♡REGAN' で、クルベラブリンカのナンバーとミルトン・ナシメントも1曲演奏。メンバーは赤尾と島紀史(g)、高橋竜(b)、下田武男(ds)。*MarshallBlog参照
2014年 5月21日 高解像度32bit/96kHzで録音した 3rdアルバム 'BLANKO' をリリース (Taiyo Label)。
同年、12月24日 クルベラブリンカ結成3周年を記念して、2曲で完結する究極のコンセプトアルバム『冬のクルベラ 天使と悪魔』を配信のみでリリース (Taiyo Label)。このEP録音から鍵盤抜きで4人での活動を開始。ギター・リフを際立たせたソリッドなサウンドを目指す。
2013年 2月20日 クルベラブリンカ 2ndアルバム '海図 KAIZU' リリース (Taiyo Label)。
8月に仙台、山形、東京での3日間のセッションで 'Golden Roses Tour' と銘打ったツアーを行なう。メンバーは赤尾と三宅庸介(g)、板倉淳(ds)、満園庄太郎(b)。クラシックロック・カヴァーと、テラ・ローザも数曲。*MarshallBlog参照
2012年 2月25日目黒鹿鳴館でのイベント参加を皮切りに、クルベラブリンカ ライブ活動開始。5月6日 の大阪JANUSでのライブは、'The 2nd live on May 6' (Taiyo Label CD-R) というアルバム名で、200枚限定リリースされた。
2011年 自身のハードロック・プロジェクト 『KRUBERABLINKA (クルベラブリンカ)』 でバンド形態での活動を再開。テラ・ローザのアルバム'HONESTY' でギターを弾いた鈴木広美と組んで、11月23日に1stアルバム 'KRUBERABLINKA' リリース(Taiyo Label)。
2009年 テラ・ローザのアルバム'THE ENDLESS BASIS'をともに作ったギタリスト 三宅庸介のソロ・プロジェクト STRANGE BEAUTIFUL AND LOUDの1st アルバム 'LOTUS AND VISCERAL SONGS' にボーカル、作詞/作メロで2曲参加。曲名は'ZIRA' と 'What Can I Dew'。
2008年 1月5日、2006年12月に他界したテラローザのベーシスト 山口宏二の追悼ライブを大阪心斎橋Muse Hallで行う。当日、山口の好きだったテラ・ローザ・ナンバー5曲を新録したCD 'Terra Rosa of Angry Waves Tribute to Koji Yamaguchi' をチケット購入のお客様に配布。
2003年 父、静造が80歳で亡くなり、事業の整理のため大阪へ戻る。以後、大阪在住。
1999年 テラ・ローザ初期のデモ・テープをリマスターしてCD化した 'PRIMAL~Terra Rosa Rare Tracks' をテラ・ローザ・レーベルでリリース。
1995年 ギタリスト 金谷幸久のソロ・アルバム 'EAU ROUGE' に、シンガーが失踪したレコーディングの助っ人ボーカルとしてお呼びがかかり、作詞/作メロも兼ねて5曲参加。代理店がノーギャラとかふざけたことを言ってきたので、著作権譲渡してとっ払いでおさらばした。正解だった。
1993年 セッション・バンド 'PKS'の延長上に、ハードロックバンド「M’mah (マ・マー)」を結成 (g.今井芳継/b.KUZU/ ds.正田 泰)。曲作りは進めていたが正式な録音物を残さず、1年間のライブ活動の後 1994年解散。
1992年 テラ・ローザは解散。
解散ライブ 'Live FINAL CLASS DAY' (KingRecords) と 'BEST OF TERRA ROSA~FOR PEAPLE OF ELEGANCE' (KingRecords) をリリース。
同年9月、カンボジア復興支援キャンペーン『ボイスエイド』参加のため『PKS (Peace Keeping Session)』を結成。メンバーは赤尾和重 (vo)、今井芳継(g)、加瀬竜哉(b)、板倉淳(ds)、出原 卓(ds)。オリジナル音源3曲制作とライブ1本でカンボジアに贈るラジオ収集に貢献。音源はカセット・テープの形でライブ当日ラジオを寄付して下さった方にリターンされた。
M1:But Use Your Time M2: Genuine Man M3:Tonight
1991年 大阪から東京に本拠地を移しテラ・ローザの活動を続ける。
同年、ダンサー、D.T.R.のギタリスト 藤本泰司のソロ・アルバム 'MY QUEST' にボーカルで2曲参加。作詞、作曲(歌メロも)は藤本泰司ご本人であり、赤尾が、自作ではないメロディーと歌詞を公式に録音したのはこのアルバムだけ。貴重な体験。
1990年 テラ・ローザ 'SASE' と '火の中に影 maxi-single' (KingRecords) をリリース。'火の中に影' は有線で好調に流れる。
1989年 テラ・ローザでキングレコードよりデビュー。
'THE ENDLESS BASIS' キング盤. と 'HONESTY' をリリース。
同年、ミュージック・スクールなどでボーカル・インストラクターの仕事も始める。
1988年 大阪のバンド 'COM-SO 'のアルバムに1曲参加。ボーカル/サックスの龍野銀次とデュエット。
1987年 テラ・ローザはクラウン・レコードのオムニバス・アルバム 'METAL WARNING' に、'The Endless Basis' と 'Vision Of The Lake Bottom 湖底のヴィジョン' の2曲で参加。同年、初のフルアルバム ‘THE ENDLESS BASIS' マンドレ盤 をリリース(Mandrake Root Records)。オリコン・ヒットチャートにランキングされる。
1986年 音楽誌 『ロッキンf』のアマチュア・バンド・コンテストにエントリーしたテラ・ローザのデモ・テープがグランプリ、最優秀歌唱賞等を受賞。同年、テラ・ローザは、ナイトギャラリー制作のオムニバス・アルバム 'GO TO EAT' に参加。曲目は'Do Work'。
1982年 短大卒業後はアルバイトをしながらバンド・メンバーをさがしてセッションを繰り返すも、なかなか思うようには見つからなかったが、ある日、いつものように音楽誌のメンバー募集欄を見ていたら、『レインボー好きのメンバー募集』という内容の記事を見つけ応募。キーボーディストのJILL岡垣と出会い、ハード ロックバンド『テラ・ローザ』結成。シンガー、ライターとして本格的に活動を始める。
1981年 奈良市の私立帝塚山短期大学文芸学科で陶芸コースに学び卒業。
この短大時代の2年間、高校文化祭で共に演奏した仲間やその繋がりの大学生達と、コンテストなどにコピーやオリジナルで出場するなどの経験を積む。この時期のバンド→ 『ココヤ』『バック・ドアー』『チャーリー・ボギー&コリンズ・レインボー』『ブリティッシュ・メーカー』など。予選で落ち続けたが爪痕は残せたに違いないとする。
1978年 高3の文化祭。ガールズ・バンドを組み初めてステージで歌う。曲はDeep Purpleの 'Smoke on The Water'。
1976年 高校1年生。Queenを聴き、Freddie Mercuryのピアノに惚れる。これを機にロックも聴き始める。ある日、FM大阪で聴いたアルバム 'Rainbow Rising' でHRに開眼。特にRonnie James Dioの声の凄さに心打たれてアルバムを買い、聴いて聴いて聴きまくる。そして学校から帰宅 → 制服のまま『アルバム2枚すぐ歌う』を高校3年生まで毎日繰り返すことになる。アルバム2枚とはもちろんBlackmore's RainbowとRainbow Rising。
1973年 中学1年生。兄の勧めで荒井由実のアルバム(最初の3枚)を聴きまくる。中学3年間は Paul Simon、Stevie Wonder、荒井由実、時々The Carpenters。そして友達と奈良、京都方面へ洋画を観に行く週末・・・というくり返し。学問の成績は最悪。
1969年 小学3年生。Simon & Gurfunkelを聴き、Paul Simonに憧れる。アコギにチャレンジするも手が痛くてすぐ諦める。
1968年 小学2年生。The MonkeesをTVで観て好きになる。兄のLPレコード(The Monkees Golden Album)を奪って、お下がりのプレーヤーで聴きまくる。
1967年 小学1年生。ピアノ教室に通い始める。ピアノは好きだが読譜が苦手であまり進歩せず、耳だけ育つ。
教室の先輩が弾くベートーベン・ピアノソナタ(『悲愴』と『テンペスト』)を聴きベートーベン・ファンになる。
1961年 1月6日(金) 大阪市天王寺区細工谷の聖バルナバ病院で生まれる。生家は八尾市山本町。父は当時の大阪マンドリン合奏団創立者でバンマス 赤尾静造。母と、6つ年上の兄の4人家族。幼少期よりドラムスに取り憑かれた兄に、妹(和重)はクッキーの缶や木琴を叩かされ合奏を強いられた(楽しかった)。母もミュージカルやポップス好き。様々な音楽が爆音で流れる愉快な家庭で暮らすことになる。